発達障害の私が「推し、燃ゆ」を読んだ感想

『推し、燃ゆ』を読んだ。主人公・あかりがまるで自分みたいだった。

以下、本書の感想を交えた個人の日記です。

なお、本記事に書いた発達障害の症状はあくまで一個人の例です。発達障害は十人十色で、全ての人に同じ特性が出るわけではないことを予めご理解ください。

 

『推し、燃ゆ』の好きなところは発達障害者の人生が淡々と書かれているところにある。 

私はあかりと同じく発達障害。子供の頃、自分で歩くのがひどく億劫で母親によくおんぶをせがんだ。甘えん坊だとからかわれたことがあり、長い間モヤモヤしてたけど、本書を読んではっきりした。「運ばれることに安心している」「体が重い」これが理由だった。

あかりのように体が重くて重くて仕方がなかった。電車に乗ってると安心するし、お皿は自分で洗えないし、洗濯物も20歳になるまで母親に畳んでもらっていたし、高校は週に2-3回登校の通信制にもかかわらず二次障害によるうつ病が原因で卒業に4年以上かかった。

そして人に話しかけられるとフリーズする。

 

バイト先でお客さんの対応中に別のお客さんからおしぼりを求められて思考の流れが切れるシーン、ここのやりにくさは痛いほど伝わってきた。複数のことを同時に認知し、記憶し、考えて行動するのはすごく難しい。

それが自分だけのことならいいけど他人が関わるとどうなるか。

バイト先の店長がやつれてきたのは病気のせいじゃなくてあかりのミスが由来のクレームが増えたからであろうことは想像に難くない。

 

頑張ってるのにできない。できないことを無理矢理やってるので人より体力を消耗し、最終的には疲れて全部ダメになる。

そう何もかもダメなのである。億劫なのである。それが好きなことになると急に脳みそが元気になる。活発的になる。あかりは推し事をやるときだけはハツラツとしている。

私もゲームとか漫画とかアニメに勤しむときだけめちゃくちゃ元気だ。英単語も漢字もろくに覚えられなかったけど推しキャラのプロフィールはしっかり記憶できた。

 

本書の唐突な場面転換も発達障害ならでは。

この場面の切り替わり方には覚えがある。保育園のとき知らない間に発表会の劇の練習をすることになっていた。なんなら知らない間に配役決まってた。小学生のときは気付けば遊園地にいたこともある。親に連れて行かれていたからだ。

たぶん大人から声かけはあったと思うけど私の脳みそは認知できてなかった。

 

人生においていつもそう。興味のないことはからきしでも好きなことは一から百まで覚えられる。いつもは重たい体も好きなことをやるときだけきびきび動く。たぶん神経伝達物質の出方が好きなこととそれ以外のことで違うのだと思う。

それが側から見たら遊んでばっかりの怠け者に見える。でも当人にとっては全く違う。頭の中ではやることやらなきゃいけないと思ってる。あかりもそうなのかは定かじゃないけど、ラーメン食べたあとの器を度々気にしているのでどこかでなんとかしなきゃと思ってはいるんじゃないかと思う。

なのに頭が働かない。頭が働かないから体も動かない。なんとかやりだしたらやりだしたで今度は生まれて初めてひらがなの「あ」を書くときのような、妙にイライラする感覚が脳みそにつきまとう。

好きなこと以外何をやるにもぎこちないのだ。本書の表紙みたいに見えない何かで雁字搦めになっている。いつもいつも、毎日毎日。ぎこちないから何をやるにも億劫なのであった。

 

『推し、燃ゆ』は発達障害者の人生が淡々と書かれている。特に説明するわけでもない。ただ、そこにそういう人間の存在があるとだけ。発達障害の私はそんな本書を読んで心が落ち着くのだった。